<無我になるとき>
山に入ってから3日目。
ここから不思議な感覚に入る。
まだまだ、この感覚を言葉にするのは難しい。
私という個体の感覚が、山の中に溶け込んでいく。
私が私のようでいて、私ではない。
そんな感覚なのだ。
もしかしたら、これが無我という感覚なのではないかと
最近よく考える。
たいてい1日目は登りメインのルートでもあるし、
久しぶりの山ということもあり、
身体も頭も追いついていないというか、
山も自身もお互いに反発しあっているような感覚の中、進んでいく。
私は山に抵抗し、山は私に抵抗する。
その力と力のぶつかり合いを全身に受け止めながら、上へ上へ、奥へ奥へ入っていく。
それが二日目には少し和らいでいく。
頭よりも身体が山に適応していくのが早い。
頭は今後のルートのことや天気のこと、置いてきた気がかりなこと、
などなど心配や不安なことばかり考えている。
しかし、日が経つにつれて頭は次第に静かになっていく。
都会では絶対見ることがない景色、写真では伝わらない光景。
カメラに映し出される情景、まるでこれを見るために来たと言いたくなる秘景。
そのどれもが頭を静かにさせていく。
足取りにリズムが生まれる。
休むタイミングも適切になっていく。
疲労感は1日目と違って気持ち良さが混じる。
見えるものが変わる。
3日目を境にして、撮る写真の様子が変わる。
それはそのときでも、あとからでもよく分かる。
今まで気がつかなかったような小さな植物や昆虫にも目が止まる。
早くアウトドアという言葉が無くなればいいのに
とよく思う。
近年のアウトドアブームによって、登山用品の低価格化によって
多くの人が山に訪れるようになった。
それによって山は人間にとって余暇を楽しむための
遊びのための場としての地位を確立しようとしている。
しかし、山にとって、山に住む野生生物にとって
それはどういうことを意味しているのだろうか。
間違いないことは山に住む野生生物にとって
山とは人間で言うところのインドアであると言うことだ。
もちろん、野生生物たちにはドアなどないのだから
どこからどこがインドアで、アウトドアなのかといった概念はない。
私たち人間だけが、ドアを境に縄張りを我がものとしている。
海外でも日本でも野生生物と人間の衝突は増えていく一方だ。
それは事故と呼べるような直接的単発的な出来事から、
原因解明までに時間がかかる間接的長期的な出来事まで多様である。
私たちが山に入るとき、
山にとって、もしかしたら異物が侵入してくるようなものなのかもしれない。