「山をなめてはいけない」
という言葉は登山の経験がない人でも、都会で生まれ育った人でも
誰しもが必ず一度は耳した言葉だろう。
毎年毎年1年中、テレビやネットで登山者の遭難や事故の話が流れてくるたびに、決まり文句としてこのメッセージが送られる。
俺も本当に「山をなめてはいけない」と強く思う。
しかし、この言葉の本質がうまく伝わっていないようにも思える。
実際に遭難や事故に遭っていないだけで、山をなめている人は多いと思う。
昔はひとりで山に入ってばかりだったので気がついていなかったが、ここ最近誰かと一緒に山に入る度にそう実感するのだ。
山をなめている人の特徴は服装ではない。
服装にいくらお金をかけて一流ブランドを一式揃えても、山ではそんな嘘は通用しない。
もし服装が重要だと思うなら、ネパールの山奥に行くと良い。
50kgほどの荷物を山奥の山荘まで運ぶ歩荷(ポーター)さんはビーサンに、ジーパン、ぼろぼろの半袖Tシャツで標高3000~5000Mほどの峠をいくつも超えていく。
彼らに荷物を預けて身軽なはずのトレッカーたちを次々と追い越しながら、滑らず転けずに上り下りしていく。
俺もアメリカのロングトレイルやネパールのトレッキングで身につけた服装は全身で1万円以下だった。
遭難や事故が起きる時とそうではない時の境界線はそこにはない。
その境界線を決めるのは以下の二つの要素だ。
一つ目は「準備不足」。
準備不足とは道具類の不足の話ではない。
もちろん道具類を充実させることは山旅を楽しく快適にしてくれる。
しかし先ほど述べたようにそれはあくまでも境界線を決めるものではなく、+アルファ程度の存在でしかない。
準備不足とは「身体の準備不足」のことである。
つまり、登山するための身体づくりを励むことと、体調を整えてくることだ。
テント泊の縦走ともなれば、15kg程度の荷物を担いで1日に6時間以上歩くことになる。
普段の日常生活の中で似たような活動をすることは全くない。
肉体労働といわれる仕事でもそんな仕事に出会うことは多くない。
だから、普通に暮らしていたら常に準備不足のままである。
あなたがまだ20代前半で、高校生くらいまでがっつり体育会系の部活動をしていたなら、まだその余力でたいていの山は登れるだろう。
しかし、そうでもなければ時間をかけてでもトレーニングしなければいけない。
工夫次第で小さなトレーニングはいくらでもできる。
たとえば、俺は普段からリュックサックに余計に荷物を入れて重くしている。
出張で県外に行くときも、登山用のバックパックに余計に荷物を入れて15kg程度まで重くしていく。
そして、エスカレーターやエレベーターをできるだけ使わずに歩く。行く先が3~4km程度なら決まって歩くし、2~3階分くらいなら階段を上り下りする。
パソコン作業や読書中に眠くなってきたら、眠気覚ましにスクワットなどトレーニングもする。
休日に日帰りで小さな山を登るときも、同様に荷物を多く入れていく。
そういった荷物が多く持っていないときでも、たとえばお店から一番遠くの駐車場に車を止めて歩く、ようにできるだけ長い距離を歩くように心がけている。
こういった工夫と習慣は10年以上も続いている。だから体力を維持できている。
山旅のスケジュールも決まれば、それに向けて普段の暮らしのスケジュールを組んでいく。
早寝早起きに身体を慣れさせて、食事も多く摂り過ぎないようにするし、身体に余計な負担をかけないように忙しくしない。
多忙の中ふらふらで登山口にたどり着くようなら、それは山に入る資格はないと本気で思っている。
こうして普段の日常のなかで身体づくりを意識して過ごしている。
こうでもしなければ、長い山旅を楽しめないのだ。登山の経験者は無意識意識どちらにしてもこうして、山に入るために準備をしている。
もちろん無理をすれば確かに山奥にも行けるし、原生林にたどり着くこともできるだろう。
しかし、楽しさは余裕があってこそ生まれる。
時間に追われることもなく体調も優れていなければ、楽しさよりも不安や不快が優ってしまう。
なぜそこまでして準備しなくてはいけないのか?と問われれば、
俺は遭難しないためではなく「山を楽しむためだ」と答える。
二つ目は「山に入らない選択肢を持つこと」だ。
何事も予定通りに希望通りに事が進むわけではない。
体調が優れないのなら、山に入らない。途中で体調が悪く慣ればすぐに引き返す。
天気が崩れそうなら、装備品に自信がなければ、もし途中でそうならばすぐに引き返す。
山での遭難で「来た道を引き返す」ことは一番助かる可能性が高いのに、遭難しする人は決まってしていない。
それと同様に「登山せずに家に帰る」ことも同じだ。山を登っても体調が良くなることはない。
そんなこと当たり前のように思えるかもしれないが、実際はそうはならない。
とくに友達との計画やガイドを雇っていたり、山小屋に予約を入れていたりすると、見栄や損得で判断してしまいがちだ。現代人は特に。
休み休みいけば大丈夫だろうとか、上で休めばどうにかなるだろうと自分の身体に嘘をつく。
そんな嘘は山では絶対に通用しない。
山に入るとき、登山口に着いたときに自分自身にこう言い聞かす。
「これは寄り道だ。俺の目的は無事に家に帰ることだ」と。
これこそ「登山への心構え」だと思っている。
あなたの目的が「命と引き換えになってでも、山頂に行くこと」なら、無理をしてでも山に行けばいいと思う。
しかしそんな人はプロの冒険家の中でも皆無に近い。ただの登山者ならなおさらだろう。
もし山に神様がいるのなら、人間の論理で言えば結構残酷だと思う。
新婚だとか、善良な市民だとか、有名人とか、仕事の都合とかそんなものを汲み取って命を奪ったり助けたりは絶対にしない。
そんな自然界にはない嘘っぱちを彼らには通用しない。
だから俺はプライベートでもガイドの仕事でも誰かと山に入るときは、相手が嘘をついていないかを見極めようとする。もちろん自分自身にも。
どうしても山の経験が多い俺が判断を下す役割を担う事がある。
だから、少しでも命のリスクが増えるような選択肢にはならないように事前から注意をするし、山に入ってからも常にそのことを考えている。
今までに何度も山頂を諦めて下山した事があるし、テント泊をやめて山小屋に泊まったこともあるし、そもそも登山口や途中で友達を帰したり、みんなで帰ったこともある。
そして、簡単に「頑張れ」とか言わない。
他人に励まされないと登れないようなら、山に来ないほうが良いと俺は思っている。
山はテーマパークよりも楽しいところだと思っている。
だから、多くの人を山の中に連れて行きたい。
もちろん、大好きな原生林にも。
それでも「山を楽しむ」ために準備と判断は決して手放してはいけない。
それが「山をなめてはいけない」という言葉の本質なのだ。
都会にあるテーマパークのように安全が管理されていないのが山だ。
しかし、その安全装置は自分自身の身体の中にある。
そしてそれは普段の準備と登山への心構えで磨かれていく。
安易に山に入ってしまい、辛い経験をしてしまった人もきっと多くいるだろう。
もしかしたら友達やパトロール隊に迷惑をかけてしまった人も。
そんな人にはこう言いたい。
「山をなめてはいけないよ。次はしっかり準備してから遊びにおいで。山は本当に楽しいところだから」と。