<久住・黒岳原生林の旅 自然は変わり続ける>
3日目 2022.11.12 坊ガツルキャンプ場~黒岳原生林~男池湧水群
夜遅くからテントを強い雨と風が揺さぶる。
その音と振動で何度も目を覚ます。
低気圧の尻尾がこのくじゅう連山をサァーと箒で払うかのように通り過ぎているようだ。
雲に覆われているおかげで標高が高いにも関わらず、すごい寒いわけではない。
しかし、雨の中テントを撤収して、長い距離を歩きたいとは思えない。
この辺りがへなちょこだなぁ、と思うが、山歩きは楽しくてなんぼだと思っている。
スマホを取り出して、雨雲レーダーを確認する。
普段は山に入っている間は充電を切りっぱなしにしている。
一応「遭難した時に備えて」と言っているが、実際には仕事の連絡とか入ってこないようにしたいからだ。
しかし、こういうときだけは文明の利器を使ってしまう。
昔はラジオで確認した時代もあっただろうし、雲の動きで確認していた人たちもいただろう。
そういうのに憧れる気持ちもあるが、文明の利器もまたありがたい。
数時間もすれば、どうやら雨雲は過ぎ去り、晴れはしないものの雨には打たれずにすみそうだ。
寝袋に下半身を突っ込んだまま、テントのドアを開き、朝食の準備に取り掛かる。
朝は決まってお粥のようなものと、具沢山の味噌汁を作る。
まな板を切る包丁の音楽は聴こえてこないが、他のキャンパーたちのそれぞれの音が聞こえてくる。
雨の中テントを片付ける音、水を汲みにいく足音、朝の挨拶を交わす音、雨風がぶつかる音。
温かい味噌汁を飲み込むと、その温度が内側から外側へ伝わっていく。
山奥を旅する人たちにとって、朝は特別な時間だ。
蒼い時空に染まる大地に、黄金の絵の具が染み広がっていく。
その色たちは濃い薄いがあれども、どこまでも広がって、誰だろうとも飲み込んでいく。
Blue Moment,Gold Morning.
言葉にすれば、たった数単語だが、その時空は表現しきれない。
この時空間の山は、本当に美しい。
旅人は歩きながら、立ち止まりながら、それぞに息を呑む。
写真を撮るのもいいだろう。言葉にするのもいいだろう。絵にするのもいいだろう。思い出を語ってもいいだろう。
それぞれに、思い思いに、その美しさを何かにまとめようとして、その美しさに目を凝らす。
雨足が弱ってくると、鳥たちのさえずりが遠くから聞こえてくる。
テントを片付けて、バックパックに詰め込み、靴紐を強く結ぶ。
さぁ、今日の旅に出かけよう。
行く先の山に雲がかかる。太陽はまだ姿を現していない。それでも道はある。
することといえば、その道を一歩一歩進むだけだ。そうすれば誰もが目的地に着く。
予定していた長い行程をやめて、緩やかな巻道を選ぶ。
そしてもう一度、黒岳原生林のエリアを歩くことにした。
普段、山旅ではピストンを避けるのだが、ピストンもまた醍醐味がある。
それは行く道と帰る道では同じ場所なのに見える景色が違うということだろう。
それは裏と表を見るような感じで、新しい姿を見ることができる。
さらに、朝に通った道を午後に通るのもまた違う姿に出会うことになる。
通った巻道は、地図上では実践ではなく破線だ。
こういうルートはあまり王道ではなく、整備も不十分な道である。
荒れていることも多く、倒木や倒壊もよくあることだ。
しかし、こういう道は野生動物に会うことも多く、荒々しい山を感じることができ、一人になる時間も多くて好きだ。
もちろん、道迷いや遭難のもとになることも多いため、避けられがちな道でもある。
巻道にあって、王道ルートにないものがある。
それが行くてを阻む倒木である。
ただの倒木ではない。苔むした倒木、キノコが生えた倒木だ。
倒木もまた生きている。倒木は生命を育む。倒木は長い時間をかけて土に還る。
その時間は人間の尺度からすれば、果てしなく長い。
それを待つわけにはいかないから、王道のルートではほぼ間違いなく倒木は取り除かれる。
もしくはチェーンソーで部分的に切断され、道が維持される。
巻道では誰ものぞいてくれないから、自然と倒木を迂回する道を歩き始める。
その跡を辿るように、次の旅人が通り、またその次に来た旅人が通る。
そうして、足跡は道となる。
自然は変わり続ける。むかしの道もまた変わり続けた。
しかし、現代人はそれを良しとせずに、留めようとする。
それはもしかしたら生き方そのものなのかもしれない。
行くてを阻むものが現れたとき、むかしの人は迂回してできるだけ大きなエネルギーを使わなかった。
現代人は大きなエネルギーを使えてしまうがために、行くてを阻むものを取り除こうとする。
そのエネルギーが大きすぎてしまえば、何が起きるかは現代の環境問題を直視している現代人は気がついているはずだろう。
しかし、なかなか文明の利器というものは無くならない。
むしろ姿形、名前を変えて増えるばかりだ。
人間の営みとは本来、自然の脅威を「いなす」ことが中心だった。
それがいつの間にか、思いのままに「管理」するようになった。
山奥にバックパックを担いで歩いて旅をする。
それは自然の脅威に立ち向かいながらも「いなす」ように旅することだと思う。
担げるものには限界があり、エネルギーにも限界がある。
そのなかでそれぞれ旅人が、山を楽しめるものを厳選し、それを活かす。
大切なことは「生きる」ことだから、無駄なものはないし、余計なものもない。
その制限の中でよりよく旅する。
それは自然の脅威の中でよりよく生きることだ。
そして、それは自然と「自由」を感じられるものになる。
山歩きをしない現代人にとっては、不便で不足だらけに見える山旅も
わたしたち山旅人からすれば、必要十分に満たされる旅となる。
山旅のスタイルも、古来のスタイルからすれば大きく変わってきた。
しかし王道ではない巻道を歩くかのように、自然をいなす本質は変わっていない。
厳しい自然の中で、優しい自然に生かされている。
だから山を降りると、寂しさとともに安心感が漂う。
そしてまた、あの時空の中に身を置きに、重たい荷物を担いでしまうのだ。