<山に入る>
と私は言う。
決して「山を登る」とは言わない。
という理由の一つは私は登山が嫌いだからである(笑)
実はこう見えて、重たい荷物を担いで坂道を登っていくのは嫌いで、登り始めの30分くらいは心の中で「クーラーの効いた部屋でアイス食べながらマンガが読みたい」と思っている。
その度いつもへなちょこだなぁ~とも思う。
だから、あの暑い季節に山を登る人たちのことが理解できない。
私は夏山に入っていると自分以外、全員変態だと思っている(笑)
さて、私は「山に入る」という。
私が山に入るのは原生林を目指して、山の奥へ奥へと潜り込んでいくためだ。
日本の山道は基本的に登山道か昔の峠道なので、どうしても坂道を登らなくてはいけないから、
仕方なくイヤイヤ山を登っているに過ぎない。
山に入ると一つ目のスイッチが入る。
それはいつもと違うエリアに入る緊張感とワクワク感が入り混じったものだ。
日本の山は多彩な上に、登山道によって歴史も景色も植生も違う。
私の楽しみの一つ目はここにある。
つまり、山自体を楽しむということだ。
登山という言葉には坂道を登りきった山頂がゴールで、過程の楽しみは人それぞれでもそれが目的になることはほとんどない。
山頂も山麓も同じ一つの存在として私は山を観る。
生き物は全て繋がった存在として私を観る。
私の緊張感はここにある。
かつて宗教家たちがこぞって山に入り、山を観、山と立ち向かったように
私は山を、私なりの生き方でもって、観る。
ときにそれは試されているかのような感覚にも陥るし、
ときにそれはいわゆる神様からのメッセージかのような出来事に遭遇する。
人間には太刀打ちすることができるわけがない大いなる存在と私はどうやらコミュニケーションを取っているようなのだ。
それは大地をブーツが掴むたびに、肺の中の空気が山の空気と交換するたびに強く実感する。
山は私という異物を飲み込み、咀嚼して確かめるかのように私を観る。
だから、私は山に入るとき、スイッチを入れる。
それは神社の鳥居を潜るときの意識に感覚に近い。
里に生きる私にとって、山は身近な存在ではないものの、遠く懐かしい感覚を持つ。
それはおそらく山も同じ感覚を持っていることだろう。
山に入るということはその大いなる存在の懐の中に入れさせてもらうことなのだ。
山それ自体を御神体として祀る神社があるように、私にとって山それ自体が一つの聖域として感じている。
現代人はついつい「非日常」「アウトドア」「エンターテイメント」という言葉を並べて、山に入っていってしまう。
私にはそれが気がかりだ。
それは山には危険があるから、という理由だけではない。
山それ自体が私にとってはひとつの大いなる存在だからだ。
日本人は他人の家に入るときに「お邪魔します」と、グラウンドに入るときに「お願いします」と、神社に入るときに「失礼します」と挨拶する。
それと同じように山に入るときも礼を尽くして、少しの緊張感を持ってもらいたいと思う。
山は人間と深い関係にあるからこそ、コミュニケーションを大切にしてもらいたい。