<ミヤマキリシマと尺取り虫>@久住連山 2023.6.3
去年の秋にはじめて九重連山に訪れたとき、山小屋でオススメしてもらったミヤマキリシマ。
今回の旅の目的の一つがそれだった。
ミヤマキリシマは九州の高山にしか生息していない高山植物で、
九重連山を始め阿蘇山や霧島連山などでも見ることができる。
その魅力は何と言っても山肌にびっしりと咲き乱れる姿だ。
ミヤマキリシマはツツジ科の植物である。ツツジは「躑躅」と書くが、「見る人が足を止めるほど美しい」に由来する。「躑」と「躅」はいずれも、たちどまる、たたずむ、という意味である。
この時期の圧巻のピンクの絨毯を見に東日本からもわざわざ訪れる人がたくさんいるという。
そのため、山小屋を始めキャンプ場には多くの人が訪れる。
九重連山の平治(ひじ)岳の西と南側斜面はこのミヤマキリシマの圧巻の装いを見せる。まさにこの時期に多く訪れる登山客のための惜しみなく装う。
しかし、今年はその装いが寂しい。
実はミヤマキリシマの蕾を食べる尺取虫が大量発生したのだ。
この尺取虫の正体はキシタエダシャクという3~4cm程度の黄色に黒の斑点模様を持つ蛾の幼虫で、秋に葉の上に産卵し、春の芽生えとともに孵化すると、葉も蕾も食べ尽くしまう。
何年かに一度、この尺取虫が大量発生するとミヤマキリシマの群落の装いは半減する。
以前は薬剤散布によって尺取虫を駆除しようとする声もあったそうだが、実施されたことはないようだ。
この声はおそらく植物と虫の関係、生物多様性についての理解が乏しい人たちの声だろう。
この尺取虫の天敵は多い。ヒメバチやヤドリバエ、クロヤマアリなど比較的容易に見られる虫にとっては春先の貴重な栄養源となっている。農業の現場で利用されるような薬剤は決して1種の生物だけを駆除することは不可能だから、こういった天敵はもちろんのこと、関係のない他の生物も一緒に駆除してしまうことだろう。
しかし、この尺取虫が生物多様性の物語の中での役割は非常に大きいことはあまり知られていない。
実はミヤマキリシマをはじめ、ツツジ科の植物は毒性を持つものが多い。なんでも食べるイメージがあるシカやヤギなどの草食動物は絶対に食べない。都会に多くのツツジが植栽されているのは毒性が強く、虫がほとんどつかないために好まれているからだ。
この他の生物が食料として利用できないミヤマキリシマを唯一食べることができるのがこのキシタエダシャクの幼虫なのである。
生物多様性の世界では「何か一つの種だけが繁栄することはあり得ない」。もし、この尺取虫が居なければ九州の高山地帯には生物はほとんど見られない可能性もある。
尺取虫は毎年毎年ミヤマキリシマを食べて、そして天敵に食べられ、その天敵はまた次の天敵に食べられる食物連鎖のネットワークによって生物多様性を育んでいく。
尺取虫のフンはもちろんのこと、他の生物のフン、そしてこれらの死体は微生物によって分解され、栄養豊富な土となり、ミヤマキリシマを始め他の草木の栄養となり、植生が豊かになっていく。
特に高山地帯では植物の栄養源となるものが不足気味であり、里と違って環境も厳しいため、栄養循環のスピードは遅い。そのため、尺取虫のような存在は生物多様性の要のはずだ。
なぜそう断言できるかといえば、それはやはりミヤマキリシマがツツジ科だからである。
多くの陸上植物には菌根菌が根で共生し、土中内の栄養水分の吸収を助けてくれていることが知られている。ツツジ科の根にはツツジ型菌根と呼ばれる特殊な菌根菌が住み着いていて、泥炭地や火山灰土が降り積もった高山帯など他の植物とその共生関係を結ぶ菌根菌が生息できない風土でも生息できる。
そして、土中内に閉じ込められてしまった窒素やリンを分解吸収し、共生関係のツツジ科植物に与え、ツツジ科植物は光合成で獲得した糖をツツジ型菌根菌に与えているのである。
この特殊な共生関係が成り立っているのが、九重連山をはじめ、日本の火山活動が活発だった高山帯にこの時期咲き乱れるツツジの群落なのだ。ツツジ科の高山植物の多くは火山活動によって生態系が撹乱された場所で群落を作る。
ミヤマキリシマが火山活動が活発だった高山帯でのみ見ることができるのは、この特殊な環境と特殊な菌根菌のためである。
とはいえこの宇宙の本質は変化することであり、自然遷移の物語はすべてを飲み込んでいく。
ミヤマキリシマが人の足を止めるほどの大群落を作るようになれば、高山独特の強い紫外線と強い風から身を守ることができるほどの小さな森ができる。そこにあらゆる生命が住み始める。そうもちろん、キシタエダシャクもだ。
そして、キシタエダシャクがせっせとミヤマキリシマを食べ、生物多様性の世界の源を作り出していく。しかし、ミヤマキリシマを食べ尽くしてしまえばこの小さな森は失われてしまうし、山肌も崩れてしまうだろう。それを分かっていてか、すべてを食べ尽くしてしまわないように尺取虫を食べる生命が集まる。
数年に一度、登山者たちを落胆させるほどの大発生にも関わらずミヤマキリシマが全滅することがないのはこの生物多様性の法則「何か一つの種だけが繁栄することはあり得ない」が守られているからだ。
しかし、この物語もいずれ次の舞台へと切り替わっていくことになるだろう。
ミヤマキリシマの枯れた木が土となり、尺取虫が分配した栄養分が生命へと受け継がれ、そしてその生命が作り出す排泄物と死体が土へと還っていく。その繰り返しによって次第にこの大地にも他の植物が生息できる土が生み出されていく。
そうなれば、ミヤマキリシマは次第に数を減らし、他の植物が姿を表すだろう。その証拠にこの九重連山の中でも比較的平坦な山々にはササや他の高山植物が姿を現している。
こうして、山の装いはピンク色から緑を中心としたカラフルな装いに変わっていく。これを自然遷移というのだ。自然遷移の主役は生物多様性そのものである。
もし山の神様がいるとしたら、なんという計らいだろうか。火山活動による生態系撹乱とは言葉では分かりづらいが、その活動は一発で生物多様性を破壊する。それは人間の活動による自然破壊とは比べ物にならないほどのダメージを与える。そこに消費も搾取もない。あるのは「無に帰す」という言葉そのものだ。
しかし、山の神様はそこにミヤマキリシマを添える。誰も寄り付かなくなってしまった無の大地に、ピンク色の花を添える。そして、人はそれを目的に山を登るのである。足を止めるために。そこで佇んで、会話に花を咲かせるために。