<どこからやってきて、どこへ行くのか>
@奥大山 2023.6.18
私は山に入り、原生林を旅するときに想像する。
この木々はどこからやってきて、どこへと旅に出るのだろうかと。
この森はどこからはじまって、どこへと広がっていくのだろうかと。
この山はどこから物語を生み、どこへと紡いでいくのかと。
山には歴史がある。
人間が入るよりもずっと昔から、私たちが入るよりもずっと昔から。
私たちが山に入った「いま」だけが山の物語ではない。
だから、私は数億年分の物語を想像しようとする。
こういうとき、知識は役にたつ。
人間の歴史、生物史、地球史、宇宙史。
植物の生態、虫たちの暮らし、獣たちの習性。
全ては時間軸でも空間軸でも繋がっているからこそ、私たちは想像ができる。
海辺にひとつのクルミが落ちていると、
何も知らない人にとってそれはただの木の実で、ただのゴミに過ぎない。
しかしクルミの生態に詳しい人なら、そのクルミが山奥の原生林のマザーツリーから遠路はるばる水の流れに沿って降ってきたことを想像できる。
山と海が川で繋がった恋人だということが分かる。
山奥で樹齢数百年のトチノキに出逢うと、
何も知らない人にとってそれはただの大きな木で、森の中の一つの木に過ぎない。
しかしその森の中にかつて木地師が住んでいたことを知っている人なら、そのトチノキは何世代にもわたって山の民の命を育み、マザーツリーとして尊敬されていたことを想像できる。
森と人が共存共栄の多様性の世界においての最良のパートナーであることが分かる。
山は生きている。森は生きている。
一生に一度しか訪れない人にはそれが分からない。
山で生きている人にとって、森で生きている人にとって
それは赤子のような無邪気さで動き、母親のような温もりで包み込む存在だ。
山は生きている。森は生きている。
山を旅する人にとって、森を歩く人にとって
それは若人のように恥じらい、哲学者のように思慮深く語りかけてくる存在だ。
私は現代のエンターテイメントとしての登山を好まない。
それはまるでスタンプラリーのように山の頂きをクリアしていくからだ。
登山者たちを無意識に「山は征服するもので、森は通過するもの」のような感覚を植えつけていく。
そこに生き物とのコミュニケーションのようなお互いのリスペクトを感じられない。
私たちが山に入るとき、それはお互いの物語が交わる瞬間で、誰も想像できなかったドラマティックな脚本が描かれる瞬間なのだ。
私たちが久しぶりに山を訪れるとき、それはお互いの物語が再び交叉し、誰も思い描けなかった新しい光陰が降り注ぐ瞬間なのだ。
だから私は森の中でひっそりと佇み、彼らの物語に耳を傾ける。
山の中にある、森の中で紡がれていく物語に五感を研ぎ澄ますとき、
彼らは私たちを受け入れてくれる。
人と人が互いに打ち解け合うのに少しばかりの時間が必要なように、
山と私たち、森と私たちが繋がり合うにはそんな時間が必要なのだ。