<山には山のソングがある。道には道のリズムがある。>
屋久島の旅 永田歩道 2023.8.22
山にはその山にだけ秘めるソングがある。
そのソングには声に出したくなるリリックがあり、四季折々のメロディーがある。
それを人々はそれぞれに神様からのメッセージだとか内なる声だとか、何かからの知らせだとか呼び、身体全身で受け応えをする。
道にはその道にだけ刻むリズムがある。
そのリズムには楽譜ではなかなか表せない音階があり、音符のように固定されていない。
それを人々はそれぞれにブーツと大地が触れる音と心肺と空気が交わる音で震わせる。
街から山に来ると、そのソングとリズムに魂と身体が調和するまでに時間がかかる。
だから、はじめのうちはひどく疲れるし、心も追いつかない。
私の場合、その山のソングと道のリズムと完全に調和するまでに3日は必要だ。
いったん調和してしまえば、驚くほど疲れずに歩けるし、視野が広がるし、不思議な体験をする。
野生動物たちとよく出逢うし、鳥の導きに出くわすし、小さな生き物たちが踊る。
山に入って直後には、どうして身体は山と反発し合う。
しかし、反発し合うからこそ、調和に向かうのだ。
山と身体の絶えない交流の中で、少しずつお互いに歩み寄っていく。
ネィエティブ・アメリカンにはこんな話があるという。
「自然界を歩くときの一歩は、池に投げ込む石のようなインパクトを生む。石が波紋をつくるように、人間の一歩も森のなかで波紋をつくる。その波紋は同心円状に伝播していき、野生動物たちは危険を察知して逃げていく。その波紋が収まるのが約20分。そこから本来の森の姿がみえてくる」
山に入るというのはこの様子そのものである。
山と全ての生き物は私たちを異物のように扱う。
しかし、それは交流の中で次第に同じ生命として認知し始める。
最後には山の中に存在すべてを飲み込まれるような感覚に陥る。
そのとき、山には山のソングがあり、道には道のリズムがあることがよく分かるだろう。
そのとき、あなたがここまで旅してきた意味がよく分かるだろう。
その融合の交流にはあなたの意思がカギを握る。
私たちが山全体をそれ自体を、一つの生命体として尊重し、畏敬の念を持って接しなければ決して交流は生まれない。
山をエンターテイメントの、非日常のモノとして扱えば、彼らもまた同様に異物として扱い続ける。
山の中で生き、山の中で生命をつなぐ生き物たちにとって山とは日常そのものである。
現代人にとって山は遠くの存在であり、非日常のアウトドアであることは致し方ないのかもしれない。
しかし、山の生命たちにとってそこはインドアであることを忘れてはいけない。
だから私は、山に入るとき「申し訳なさそうに」旅をする。
そう、それは他人の家にお邪魔するときと同じ感覚だ。
その意思一つで、山はその秘めたソングを聴かせてくれる。道に刻まれたリズムに乗ることができる。